学びは「コドモノ」ってこと



授業は「せんせい」がするものだけど

そこで生まれる学びは「子どものもの」

「コドモノ」なんだと思う。


でも授業をしていると、指導案って言われるのかな

自分の思っている授業の流れがあって

自分が考えているように

予定どおりに流れてほしいって

そんな不思議な思いにかられる


でも、学びは「コドモノ」

「大人の思っているとおりにしたい」っていうのは

「せんせい」のしごとじゃないんだろうな


「コドモノ」っていう考え

先生はどこかで

「自分の思いどおりに、子どもが成長してほしい」

と欲してしまうように思う

今おぼえば、ぼくも、そうなっていたことがあった…

でもそれって、「せんせい」のしごと なのかな

どう成長するかは、ぼくらが決めることなのかな

あの子の「生」は、あの子が輝かせるもので

ぼくらができることは

それをいっしょに、喜ぶことなのかな

そんなふうに思う



「コドモノ」という地平


学校の学びって、「子どもたちのもの」ってこと

「コドモノ」ってこと

どうしても、ぼくら大人は、大人の社会の理屈に子どもたちを当てはめようとしてしまう

でも、子どもたちの日々は、子どもたちの学びは、すべて「コドモノ」

「大人の理屈」が、ぼくの頭に浮かんでくる

「大人の理屈」は、社会の常識だから

でも、子どもたちの学びは、根本的に「コドモノ」

そこから出発するってことが「せんせい」の出発点

そこから始まらないと、土台が違っちゃう

「コドモノ」っていう地平に立ちたい






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