子どもを主体としてみる
「主体性」って言葉を多く見る
子どもの「主体性」が育まれていくためには
結論、子どもを「主体」としてみるってことにつきると思う
じゃあ、「主体」としてみるって、どんなことだろう
「子ども」という言葉
「主体」について考える前に、「子ども」ってことにふれたい
「子ども」という言葉があの子を「子ども」という存在にしてしまう
「子ども」って言葉を聞いたときに、大人であるぼくたちは
どこか、将来に向けて、大人になるために、何かを教えてあげなくてはいけない存在のように感じる
でも、「子ども」である前に、あの子は、一人の人間として、一個のかけがえのない主体として生きている
「せんせい」はそのことを知っていなくてはいけないんじゃないか
ぼくは、自分への反省の気持ちとともに、そう思っている
一人の人間として
「子ども」という言葉は、あの子の少年時代を守るために大きな役割を果たしていると思う
ただ、どうしても学校は、大人が子どもへ何かを享受する、教育するという感覚を
大人と子どもは違っていて、そこに何かしらの区別があるような、そんな感覚を
先生たちのなかに生んでしまう
本当の意味で、自分と対等な一人の人間として、目の前の「子ども」をみることの難しさ
もちろん、社会的に守ってあげなくてはいけない
社会的には、弱さをもった存在であることは間違いない
ただ、考えなくちゃいけないのは、社会的にではなく「その存在として」ってこと
すでに主体として在る
子どもは、ぼくたちが何かを教える前に
すでに主体として、この世界を生きている
生まれた赤子は、すでに主体として、大きな声をあげて泣く
大きな声で、この世界に自らがかけがえのない主体であることを告げている
子どもという主体に出合って、主体として生きることを学んでいるのは
実は、「せんせい」なのではないだろうか
子どもはそもそもそうやって生きているんじゃないかな
大人になるにつれ、忘れちゃうけど
だから、忘れた大人は、失われた主体性を、子どもから学ぶんじゃないかな
総じて、子どもの「主体性」が育まれていくためには
ぼくたち大人が忘れちゃった主体性を、子どもの内に「みる」ことが大事になるんじゃないかな