『みんな同じ』をやめることから

00_はじめの一歩

特別支援学級に通う子どもの数がずいぶん増えた。
インクルーシブ教育、という言葉がどこでも語られるようになった時代に、なぜ子どもたちの学びの場の「分離」は進んでいるのだろう。その問いに向き合うとき、ぼくはいつも、自分の教室の授業に戻ってくる。


「別の教室」が増えていく

特別支援学級に在籍する子どもが増えている。支援が届きやすくなった、という見方もあるかもしれない。でも、ぼくにはどこか引っかかるものがある。

インクルーシブ教育というのは、本来、「みんなが同じ場所で学ぶ」ことを目指すものだったはずだ。それなのに、現実の動きは、むしろ逆向きのように見える。

なぜ、こうなっているのか。

ぼくは、その理由のひとつが、通常学級の授業そのものにあると思っている。

「みんな同じ」を前提にした教室

通常学級の授業は、長いあいだ、「みんなが同じことを、同じ速さで、同じように学ぶ」ことを前提にしてきた。

同じページを開いて、同じ問題を解いて、同じ時間に終わる。そこからこぼれ落ちる子が出る。うまく乗れない子が出る。そしてその子は、「通常学級では難しい」という判断のもと、別の場所へと移されていく。

それは、ある意味で誠実な判断だ。その子のことを思ってのことだから。でも、ぼくはそのたびに、こう問い返したくなる。

通常学級の授業が、「みんな同じ」でなかったら、どうだっただろう、と。

障壁は、子どもの側にあるのか

「学びにくい子」がいるのではなく、「学びにくくさせている授業」があるのかもしれない。

段差のある建物が「障壁」をつくるように、「全員が同じゴールへ向かう」授業の設計が、ある子にとっての障壁になっている、ということがある。

その子が通常学級に「合わない」のではなく、通常学級の授業がその子を「はみ出させている」だけなのかもしれない。その視点に立ったとき、解決策は「別の場所」だけではなくなる。授業を変える、という道が見えてくる。

柔軟な授業が、教室を変えていく

もちろん、すべての子どもが通常学級でうまくいくとは言わない。専門的な支援を必要とする子には、それにふさわしい環境と人が必要だ。それは当然のことだ。

でも、今「別の教室」へと移っている子どもたちの中には、もしかしたら、授業が少し違う形をしていたら、通常学級のなかで自分らしく学べていた子がいるかもしれない。

「全員が同じ問いに答える」授業ではなく、「自分の問いを持てる」授業。「先生が正解を渡す」授業ではなく、「子どもが自分なりの考えを持ち寄れる」授業。「できたかどうか」で測られる授業ではなく、「今日の自分がどこまで考えられたか」を大事にする授業。

そういう教室だったら、「この子はここでは難しい」と判断する場面が、いくらか減るのではないか。

最初の一歩は、授業の中にある

インクルーシブ教育の実現は、制度を変えることや、体制を整えることだけでは届かない。もっと手前に、ぼくたちが今日から変えられることがある。

それは、目の前の授業を、少しだけ柔軟にすることだ。

一つの答えへ全員を動かすのではなく、それぞれが自分のペースで考えられる余白をつくること。正解を早く出した子が「勝ち」ではなく、ゆっくり悩んでいる子の時間もだいじにされること。「わかった」だけでなく、「わからない」も教室の中に居場所を持てること。

そういう授業が日常になっていくとき、「この子は通常学級では難しい」という判断の手前で、そもそも子どもの学びのとは、子どもの学びの場とは、という問いが生まれてくる。そしてその問いこそが、インクルージョンへの、静かな、でも確かな一歩になるのではないかと、ぼくは思っている。

分ける前に、授業を変える。その順番が、もっと大事にされていい。


あなたの教室で「みんな違う」ことが当たり前になった日、特別支援が必要とされる子どもの数は、変わるかもしれない。そしてそれよりも、支援は支援であり、特別支援という概念自体がなくなるのかもしれない。


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