子どもの前に立つと、つい欲が出る。もっとできるように。もっと伸びるように。この子の、まだ見ぬ未来を思い描いて。それは、大切なことだと思う。でも先日、その願いを一枚ずつはがしていったとき、いちばん下に残ったのは、ずいぶん素朴なひとことだった。
たくさんの「もっと」
教師をしていると、子どもに向ける願いは、どうしても「もっと」の形をとる。
もっと計算が速くなるように。もっと本が読めるように。もっと友だちと関われるように。もっと自信を持てるように。——どれも、その子を思えばこそのものだ。願うこと自体は、まちがっていない。むしろ、願わない教師のほうが、こわい。
でも、その「もっと」が積み重なっていくと、いつのまにか、いまのその子が、どこか「足りない」存在に見えてくることがある。伸ばすべき余地として、目の前の子を見てしまう。よかれと思っての願いが、気づかぬうちに、ものさしになっている。
ある日、思ったこと
先日、ある子のことを考えていた。この子はここが課題で、ここを伸ばせたら——と、いつもの調子で頭を巡らせていた。
そのとき、ふと、思考が止まった。そして、まったく別のことばが浮かんできた。
「元気でいてくれたら。結局はそれだけだ」と。
計算ができるようになることも、本が読めるようになることも、たしかに願っている。でも、それらは全部、この子が明日も元気で、笑って、そこにいてくれることの、その上にしか成り立たない。土台は、いつだってそこにある。ただ、ふだんは忘れているだけだ。
いま、すでに満ちている
そうやって力がふっとゆるむと、もう一つ、見えてくるものがある。この子は、「まだ何者でもなく、これから満ちていく存在」なのではない。いま、この今において、すでに満ち足りた一人なのだ、ということ。
大人はつい、子ども時代を「未来のための準備期間」として見てしまう。いまはまだ途中で、大きくなって、いろいろできるようになって、はじめて一人前になる——と。でも、笑って走り回っているその子は、未来のために生きているわけではない。いま、この一日を、まるごと生きている。今日の空の青さも、給食のおいしさも、友だちとのささいなけんかも、その子にとっては、いまがすべて、いまが本番だ。
「もっと」というものさしで見ると、子どもは足りない存在に見える。けれど、「いま」というまなざしで見ると、子どもは、それだけで、すでに満ちている。欠けたところを埋めていく対象ではなく、この今に、まるごと在る一人。そう思えたとき、こちらの背筋が、なぜか、すっと伸びる。
願いの手前に立ち返る
願いを持つことと、いまのその子をまるごと満ちた存在として受けとめること。この二つは、たぶん、矛盾しない。ただ、順番があるのだと思う。
まず、いま、ここに、満ちて在ること。元気で、笑っていてくれること。そこに立ってから、「もっと」を願う。順番が逆になると、願いはいつのまにか、子どもを追い立てるものに変わってしまう。
一日の終わり、子どもたちを見送りながら、心のなかでそっと唱える。今日も、元気でいてくれて、ありがとう。あなたは、いまのそのままで、もう十分に満ちている。——結局のところ、ぼくの願いのいちばん下には、いつもこれがある。
