生きる力。学力。人間力。コミュニケーション力。非認知能力。そして「資質・能力の三つの柱」。
教育の世界は、子どもの成長を、ほとんど例外なく「力」の語彙で語ります。「生きる力」を掲げてから、まもなく30年。私たちはこの言葉遣いを、一度も疑わずに来たのではないでしょうか。
「力」という意識の眼鏡をかけた瞬間、よく見えるようになるものと、視野の外に消えるものがある。
「力」という言葉が、こっそり運び込んでいるもの
成長を「力」と呼ぶとき、私たちは気づかないうちに、いくつかの前提を受け入れています。
第一に、「力は個人の内部に宿る」という前提。筋力が私の身体に宿るように、生きる力もその子の内側にある、と。けれど、あの教室では生き生きと発言する子が、別の教室では黙り込む。あれは「力」が増えたり減ったりしたのでしょうか。それとも、その子と場との関係が変わったのでしょうか。成長と見えるものの少なくない部分は、個人の内部ではなく、他者や世界との間に起きています。
第二に、「測定・比較できる」という前提。力という言葉には、大小・強弱の物差しが最初から埋め込まれています。「あの子はコミュニケーション力が高い」と言った瞬間、子どもたちは一本の物差しの上に並んでしまう。
第三に、「場面を越えて持ち運べる」という前提。学校で身につけた課題解決能力は、社会に出ても発揮される――本当にそうでしょうか。学びの多くが状況と結びついていることは、学習研究が繰り返し示してきたことです。
第四に、「獲得し、所有するものである」という前提。力は身につけるもの、蓄えるもの。つまり成長とは獲得の物語になる。けれど、子どもの育ちには「手放すこと」や「明け渡すこと」――幼さを手放す、万能感を手放す――という側面が確かにあります。獲得の語彙では、この成長は語れません。
四つの前提は、どれも自明ではない。にもかかわらず、「力」と呼んだ瞬間に、全部まとめて受け入れたことになってしまう。
なぜ「力」の語りは増え続けるのか
では、なぜ教育の言葉はこれほど「力」で埋め尽くされたのでしょう。
「力」と呼ぶと、目標にできるのです。目標にできれば、評価できる。評価できれば、施策になり、予算がつき、計画に書き込める。「〇〇力の育成」という表現は、教育の真実であるより先に、大人の世界、社会の都合なのです。
これは誰かの悪意ではありません。大人、社会は説明責任を負っており、説明のためには測れる言葉が要る。「力」は科学を選んだ社会の言葉として、実によくできている。
けれど、便利な言葉は増殖します。測定と目標の言語が、教育の言語を侵食していくことを指摘してきた方は少なくありません。
「力」への意識、「力」という言葉は、学校の研究主題になり、指導案の「めあて」になり、やがて教師が子どもを見る眼鏡になります。「あの子の主体性を評価しなければ」と考え始めたとき、眼鏡はもう顔の一部になっています。
「力」でない語り方は、あるか
では、成長を語る別の言葉はあるのでしょうか。
一つは、「関係の変化」として語ること。状況的学習論は、学びを個人の獲得ではなく、共同体への参加の深まりとして描きました。「あの子は発表する力がついた」ではなく、「あの子はこの教室で、聴いてもらえると感じられるようになった」。後者のほうが、実際に起きたことに近い場合が、きっとあります。
もう一つは、「世界の見え方が変わること」として語ること。虫の名前を覚えた子には、昨日と同じ校庭が違って見えています。増えたのは知識という所有物ではなく、世界の「解像度」です。
そしてもう一つ、古い言葉ですが、「成熟」。実りは「高まる」のではなく「熟する」。成熟の語彙には、時間がかかること、急がせられないこと、比べられないことが含まれています。
とはいえ、「力」の語りを全部やめよう、という話ではありません。教育に関する文章は「力」で書かれ続けるでしょうし、それが担う説明責任には意味があります。大切なのは、メタファーの限界を自覚したまま使うこと。「力」と書きながら、この言葉からこぼれ落ちているものを、いつも視野の隅に置いておくことだと思います。
おわりに
「力を育てる」――この言葉を、私たちは今日も何度も口にします。その言葉自体が悪いのではありません。ただ、そう呼んだ瞬間に、育てられないもの、測れないもの、その子と誰かの間にしか存在しないものを、知らずに切り捨てているかもしれない。
そんな前提も丁寧にみつめること自体も、せんせいのしごとの一つなんじゃないかな。
