雨の日には、雨の日の授業がある

00_はじめの一歩

雨の日には、雨の日の過ごし方がある。暑い日には、暑い日の過ごし方がある。窓の外が変われば、家での時間の流れ方も、自然と変わっていく。

授業も、そうなのだと思う。教室には、その日の天気がある。子どもたちの呼吸がある。リズムがある。そして本当は、それによって、授業の在りかたそのものが決まっていく。

教室にも「その日の天気」がある

朝、教室の扉を開けた瞬間に、空気でわかる日がある。やけにざわついている朝。妙に静かで、重たい朝。昨日の運動会の余韻が、まだ体に残っている日。雨で、外に出られずくすぶっている日。

子どもたちは、いつも同じ状態で席に着いているわけではない。その日その日で、呼吸の深さも、まなざしの速さも違う。それは乱れではなく、生きているということだ。

それでもぼくたちは、「予定どおり」を急ぐ

なのにぼくたちは、しばしばその天気を無視する。指導案にはねらいがあり、時間配分がある。「今日はここまで進めなければ」——その焦りが、子どもの呼吸より先に立つ。

ざわつく朝に、いつもの導入を押し通す。深く沈んでいる教室に、無理にテンションを上げさせる。そうして、計画は遂行されても、その時間は、誰のものでもなくなっていく。

晴れの日の過ごし方を、雨の日に持ち込んでいるようなものだ。

授業の在りかたは、子どもの側から立ち上がる

雨の日には、雨の日にしかできない時間がある。窓を打つ音を聞きながら、いつもより静かに、深く考えてみる。ざわつく日なら、その熱をそのまま話し合いに変えてしまう。

授業の「正解の形」が先にあるのではない。子どもたちの呼吸とリズムがあって、そこから、その日の授業の在りかたが立ち上がってくる。

教師の仕事は、決めた形に子どもを合わせることではなく、子どもの呼吸に、こちらの授業を合わせていくこと。同じ単元でも、晴れの日と雨の日とで、流れ方が違っていい。むしろ、違っていてこそ自然だ。

指導案は「予報」であって、「台本」ではない

だから指導案は、台本ではなく、予報のようなものだと思いたい。こう進むだろう、という見通しは立てる。けれど、空が変われば、潔く変える。予報が外れることを、失敗とは呼ばない。

立てた計画を手放せる余白があるから、子どもの呼吸を感じることができる。

結び

雨の日には、雨の日の過ごし方がある。暑い日には、暑い日の過ごし方がある。

授業も、きっと同じだ。今日の教室の天気を、まず感じる。子どもたちの呼吸を、まず聴く。そのうえで、今日のこの子たちにしかできない一時間を、いっしょに過ごす。

授業って、計画どおりの晴れではない。雨なら雨のまま、その日の天気を、深く生きること、それが授業なのだと思う。

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