先生たちのなかで、多く交わされる言葉は「発問」と「指導」。あの場面の問い方はどうだったか。どう切り返せば、もっとねらいに迫れたか。ぼくたちは額を寄せ合い、熱心に技術を磨こうとする。
けれど、その熱心さの足もとには、ひとつの問いがある。——ぼくはいったい、何のために発問を磨いているのだろう。
発問は「手段」ではなく「意図」を運んでいる
発問は、子どもの思考を促すための技術だと教わってきた。だが誤解を恐れずに言えば、ぼくたちがふだん磨いているのは「子どもが考えるための問い」ではなく、「こちらの想定した答えに、子どもをたどり着かせるための問い」であることが多い。
授業にはねらいがあり、落としどころがある。だから「ここで揺さぶる」「ここで収束させる」と、思考の方向をあらかじめこちらが設計しておく。そんな先生方の内にあるうまい授業とは、子どもが自分で気づいたように見えて、その実、教師の引いたレールの上を気持ちよく走らされている授業のことではないか。
問われるべきは「方法」ではなく「姿勢」
一度、立ち止まりたい。
「もっと良い発問を」という反省は、たいてい方法の改善で終わってしまう。切り返しの精度、提示の順序、間の取り方。技術はたしかに磨かれる。けれど、本当の課題はその手前にある。
子どもの思考を、教師の思いのとおりに動かそうとすること、そのものだ。
どれだけ問いを洗練させても、「動かす主体は教師、動かされる客体は子ども」という構図が変わらなければ、それは上手な誘導が下手な誘導に勝ったというだけのことではないか。そこで子どもは、考えているようでいて、考えさせられている。自分の問いを、生きていない。
「思いどおりにならない」ことを、こわがらない
子どもの思考は、本来こちらの想定を平気ではみ出していくものだ。予想していなかった発言、的外れに見えるつぶやき、答えに詰まったときの沈黙。私たちはしばしばそれを「ねらいから外れた」と処理し、すぐに軌道修正にかかる。
けれど、そのはみ出しこそが、その子が自分の頭で考えている何よりの証ではないだろうか。
教師の仕事は、思考を望ましい方向へ運ぶことではない。子どもが自分の問いに出会い、自分のことばで考えつづけられる「場」を耕すことだ。ぼくは答えの管理者ではなく、思考が起こる土壌の世話人でいたい。
おわりに
発問を磨くな、と言いたいのではない。磨く前に、何のために、誰のために磨くのかを、もう一度問い直したいのだ。
「思いどおりに動かしたい」という欲を、まず自分の内にあるものとして認める。そのうえで、いったん手放してみる。子どもの思考が、私の想定をこえて動き出すその瞬間を、こわがらずに待てるかどうか。
本当の授業とは、たぶん、教師の思いが通った授業ではない。子どもの思考が、教師を置いていった授業ではないだろうか。

