風にやわらかくゆれる柳の枝葉と、朝の光の川辺を描いた水彩画 00_はじめの一歩

ずっと、風に吹かれる柳のようでいたいと思ってきた。かたく構えず、しなやかに。強い風が来ても折れず、ただ受け流して、また元に戻る。教室でも、職員室でも、そんなふうに在れたら——と。先日、そのことを教え子に話したら、笑われた。悪い気はしなかった。むしろ、その笑いを受け止めている自分が、ほんの少しだけ、柳だった気がした。

力んでいる自分に気づく

一日のうちで、自分が力んでいる瞬間は、案外わかる。

肩が上がっている。早口になっている。子どもの返事を待たずに、次の言葉をかぶせている。「ちゃんとやらせなければ」「まとめなければ」——そういう思いが強くなるほど、体は前のめりになり、声は硬くなる。よい授業をしようとするあまり、いちばん大事な、子どもの様子が、目に入らなくなっていく。

柳のようで在りたい、というのは、たぶん、そのことへの戒めなのだと思う。力を入れるのは、いつでもできる。むずかしいのは、力を抜くことのほうだ。

「今、ここ」にいる

柳は、明日のことを心配していない。昨日のことを悔やんでもいない。ただ、いま吹いている風に、いま揺れている。それだけだ。

ぼくたちの一日は、そうはいかない。三時間目をしながら、五時間目の準備を考えている。この子に声をかけながら、あの子のことが気にかかっている。心が、いつも少し先か、少し後ろにある。だから、いま目の前にいる子と、本当の意味で一緒にいる時間は、思うより短いのかもしれない。

「今、ここ」にいるというのは、何かの技術ではないのだと思う。むしろ、あれこれの構えを一つずつ手放していった先に、ふと訪れるもの。教室でいちばん豊かな時間は、たいてい、ぼくが何かを「しよう」とするのをやめたときに、向こうからやってきた。

柳かどうかは、自分では決められない

おもしろいのは、「柳のようで在りたい」と力んだ瞬間に、もう柳ではなくなっている、ということだ。しなやかで在ろうと身構えることほど、こわばったこともない。

だからきっと、自分で「柳になれた」と思う日は来ない。柳かどうかは、風が決める。まわりが決める。教え子がぼくを見て笑った、あのときのように、向こうからそう呼ばれて、はじめて、そうだったのかと気づく。

力を抜くことは、投げ出すこととは違う。手を抜くことでもない。むしろ、いちばん大事なところに、ちゃんと在るために、余計な力をおろすこと。今日も、肩の力を、そっと落とすところから始めたい。教室のドアを開ける前に、ひとつ、深く息を吐いて。

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